青春シンコペーションsfz


第3章 音楽祭の魔物(4)


次の日。彩香はまだ気分が悪そうだった。
「やっぱり風邪かもしれないわ。一晩寝て起きたら治ると思ったのに……。まだ、むかむかするし、何だか頭痛も……。美樹さん、風邪薬があったら、分けていただけませんか?」
彩香が言った。
「え? そんなの駄目よ。風邪薬はあるけど、早く病院で調べてもらわなくては……」
慌てたように美樹が言った。

「でも、そんなに大した事じゃないので、市販のお薬で十分だと思うんです」
彩香の言葉を遮るように美樹が言う。
「心配なのよ。わたしの時も同じような症状があったから……。万が一にも検査をしてみた方が安心出来ると思うの。そうだ。直接病院に行くのに躊躇いがあるなら市販の妊娠試薬もあるし……。それで陰性ならいいけれど、もし陽性だったら、風邪薬は胎児にとって悪い影響が出るかもしれないでしょう?」
「妊娠って……。どういう事ですの? わたしには意味がわかりませんわ」
彩香は驚いて訊いた。
「わたしも最初はそうだったの。経験あるからわかるのよ。今は辛いと思うけど心配しないでね。大丈夫。わたし達みんな、あなたの味方だから……」
「みんなって……どういう事ですの? まさか井倉がそう言ったんですか? そんな事があったと……認めたんですか?」
美樹は曖昧に目を逸らした。

「あり得ないわ。だって、わたし……」
彩香には心当たりがなかった。しかし、井倉がそう言うのだとしたら、二人で過ごした夜に何かあったと言うのだろうか。だとしたら許せないと彼女は思った。
「本当に井倉がそう言ったんでしょうか?」
彩香が訊いた。美樹は俯いたきり答えなかった。しかし、それは頷いたようにも見えた。
「わかりました。その試薬とやらで検査します」
それで陰性ならば問題ないのだ。彩香も納得出来る答えが得られる筈だった。
美樹が午前中に薬局で試薬を買い、早速それを試してみた。が、その結果は陽性だった。
「そんな……」
くっきりと浮かび上がったエンジェルを見て、彩香は絶句した。


昼になっても彩香は部屋に籠もって出て来なかった。美樹はずっと彼女に付き添い、午後には医者の診断を受けた方がいいと説得した。だが、それには一つ問題があった。彩香には、運転手兼護衛として、常にケスナーという男が付いている。彼をどうやって欺くか検討しなければならなかった。これまでも彼女の外出はすべてケスナーが車で送迎していた。今回に限ってそれを拒否すれば怪しまれてしまう。彼女の父親に知られる事態だけは何としても避けなければならない。彩香自身も強くそれを願った。

「今思えば、あれはみんな井倉の作戦だったんじゃないかと思うんです」
俯いていた彩香が不意に顔を上げて言った。
「でも……。それはちょっと考え過ぎじゃない?」
一緒にいた美樹が宥めるように背中を摩る。
「いいえ! きっとそうに決まってる。閉じ込められたなんて言って、実は彼の演出だったのかも……。だって変だもの。あの日はみんな外出されてたし……はじめからそういうつもりで計画してたのかもしれない」
「まさか……」
美樹が否定しようとしたが、彼女は聞く耳を持たなかった。

「だってどう考えても話が上手過ぎると思いませんか? 閉じ込められた部屋に。ワインだけがあるなんて……。始めからわたしを酔わせて……。そうする事が目的だったのかもしれないわ。なんて卑劣な……! 汚らわしい! まさか、井倉がそんな事考えてたなんて、いや!」
彩香はパニックになり掛けていた。
「でも……。一応、井倉君の言い分も聞いてみなきゃね。だって、彼、とてもそんな悪い人には見えないもの。彩香さんの事、とても大切に思っているようだったし……もし、そんな事があったとしたら、きっと魔が差したのよ。そうに違いないわ。今はまだ、そんな風に思わないで、冷静になりましょう。ね? そして、午後にはちゃんと診察を受けて、それから考えればいいから……。信頼出来るお医者様に診てもらいましょう。そこへ行くまでの事はハンス達も協力してくれるって……。だから、ね? 落ち着いて」
美樹は懸命に言った。


その頃、リビングではハンスが電話を終えて皆の方に戻って来たところだった。
「クリニックへの送迎はリンダに頼みました。あとは、彩香さんの運転手ですが、そっちは僕が何とかしましょう」
そこにいたのは黒木と井倉。そして、フリードリッヒの4人。
「彼女は2時にここへ来ます」
ハンスが言った。リンダはハンスや美樹の友人であり、国際警察のメンバーでもある。空手の有段者である彼女ならいざという時にも十分な戦力になる。

「それにしても、まさかこんな事になるとは思いませんでした」
ハンスが言った。
「本当だ。これからどうしたら良いものか」
黒木も戸惑いを隠せなかった。
「彩香さんは産むつもりなんだろうか?」
フリードリッヒが呟く。
「産むなら僕が引き受けるですよ。弟子の不始末は師匠である僕の責任でもあります。せっかく授かった命は大切にしたいですからね。幸いこの家は広いからベビーベッドを置くスペースなら大丈夫ですよ」
ハンスはその広さを測るようにリビングのあちこちを歩き回った。

「しかし、大切なのは彼女の気持ちだろう?」
そんなハンスを見ながら、フリードリッヒが言う。
「ああ。何よりもそれが一番だ」
黒木も暗い顔で言った。その間、井倉はひたすら俯いて拳を握っていた。
「でも、僕……」
井倉が顔を上げる。
「自分が知らない間にそんな事してたなんて……。とても信じられないんです」
井倉が訴えた。
「だが、検査で陽性だと出ているんだぞ」
止めを刺すように黒木が言った。
「それはわかっています。でも……」
反論しかけたが、終わりの方はだんだんと声のトーンが落ちていった。

「気持ちはわかるが、酔った勢いで彼女とベッドインなんて事は、世間ではよくある事だ」
フリードリッヒが難しい顔で言う。
「へえ。じゃあ、おまえもあるのか?」
ハンスが訊いた。
「私は自制心があるからね。だが、それがきっかけで結婚した友人はいる。彼が言うには、朝目覚めたら、彼女の部屋のベッドだったそうだ。その夜の事は何も覚えていないと言っていたが、その後、彼女の妊娠がわかって、二人は結婚した」
その話を聞いて、井倉はショックを受けた。
「そんな……。自分でも覚えていない間に……。彩香さんの事が好き過ぎて……。酔ったせいで本能が……」
井倉は泣きそうな顔で宙を見つめた。
(ああ。僕はどうしたらいいんだ。記憶にないとしても、僕は彼女に取り返しのつかない事をしてしまったんだ)
井倉は立ったまま、ソファーの背に両手を置き、頭を垂れた。

「だが、私にもまだ信じられないんだ。相手は本当に井倉なのか? この週刊誌に出ているいかにも軽薄そうな男の可能性は?」
黒木が雑誌を広げて訊いた。
「彩香さんが言うには、生方とはスタジオで立ち話をしただけだそうです」
ハンスが言った。
「では、やはり井倉が……」
教授が納得しかけた時、フリードリッヒが口を挟んだ。
「しかし、女性の気持ちは複雑だ。ましてや今は彼女も興奮しているだろう。子どもの父親が誰なのかはもっと慎重に考えた方がいいかもしれない」

「なるほど。おまえが父親という可能性だって捨てきれないという訳か」
ハンスが言った。
「私は彼女の師だぞ」
フリードリッヒが否定する。
「あは。恋愛にそんな事関係ないだろ?」
「では、君も父親候補の一人という事になるな」
厳しい目をしてハンスを睨む。
「僕? あり得ないよ」
「みろ、君も自分ではそうやって否定するではないか」
二人は井倉を挟んで視線をぶつけた。

「……ごめんなさい」
それまで項垂れていた井倉が小声で言った。
「僕なんです」
「井倉君……」
3人の師が一斉に彼を見つめる。
「可能性からみても多分……僕だと思うんです。それで、もし、彼女に赤ちゃんが宿っているなら、僕は産んで欲しいと思います。それがたとえ僕の子じゃなかったとしても、僕が責任とって育てます」
井倉がきっぱりと言った。
「僕、子どもは好きですし……。きっと赤ちゃんの顔見たら可愛いと思う。だから……」
ピッツァが来て井倉の足にすり付けた。白くてふわふわとしたそのしっぽがまるで天使の羽のように井倉には見えた。

「偉い! よく言った!」
黒木がその両肩を掴んで言った。
「ならば、私も応援しよう! 有住の父親が何と言おうと、若い二人の気持ちが何よりも大事だからな」
そして、午後2時きっかりに。リンダが迎えに来て美樹と彩香を車に乗せて病院へ送っていった。


ケスナーがそれを見て尾行しようと車のエンジンを掛けた時、ハンスがさっと助手席に乗り込んで来た。
「やあ。モーリー、久し振りだったね。元気だったかい?」
「ああ。おかげさまでこんなちっぽけな仕事にもありついたよ」
運転手は腕時計を見、それから、隣に座った男の姿を一瞥すると、言った。
「ウサギの坊やも元気そうじゃないか」
ケスナーはそう言って笑った。が、車は発進しなかった。
「僕があげたウサギまだ持ってるの?」
引き抜いたキーを弄びながら、ハンスが訊いた。
「ああ。後生大事に持ってるさ」
男が懐から小さなそれを出して見せた。

「どうせなら女の子の胸にしまわれたかったろうにね。男の汗が染みついたウサギなんて使えないよ」
男の手から小さなぬいぐるみを取り上げて言う。
「これはこれで価値あるさ。俺のフェロモンが染みこんでる」
「ふん。あんな香水なんてインチキさ。僕も試してみたけど、付けても付けていなくても、美樹は僕に親切にしてくれるよ」
「あの女もウサギだものな。同族相哀れむってか?」
「そうだね。僕達はよく似ているよ」
道路に張り出した枝が、フロントガラスの向こうに微妙な影を落とす。

「それで、おまえは俺を足止めして何がやりたいんだ?」
「何も……」
ハンスは済まして言った。
「わかってるさ。お嬢様は腹ぼてか? 潔癖そうに見えてやるじゃないか。まさか父親はおまえじゃないだろうけどね。今度もまた、お兄ちゃんの方かい?」
「おまえ、何か知ってるのか?」
「何も……。だが、狼さんは日本に来ても旺盛らしいからな。そのうち世界中を自分の子孫で溢れさせたいという野望でもあるのかね?」
「あは。さすがに相手がルドルフっていう発想はなかったな。ありがとう。おかげで視野が開けたよ。うかうかしてると足を掬われるからね」
ウサギの頭を撫でながらハンスが言った。

「へえ。随分と大人になったじゃないか」
「僕は大人だったさ。おまえみたいにべらべら喋ったりしないからね。有住の父親に何を喋った?」
「何も言っちゃいないさ。いざという時の切り札だからね。最後のカードはそう簡単に見せびらかすもんじゃない」
「何が最後のカードだ。それでお嬢さんを脅かしたくせに……」
ハンスが睨む。
「軽い挨拶さ」
「馬鹿げてる!」
「馬鹿げてるのはそっちだろ? 組織の崩壊以降、随分上手くやったみたいじゃないか」
「上手く? 確かに僕は自分の立ち位置は要求したけど、おまえが思う程欲張っちゃいないよ。謙虚になったんでね」
爪でぬいぐるみを突きながらハンスが言う。

「おまえらが組織を抜けた後の代償はかなりのものだったんだ」
ケスナーが不満そうに鼻を鳴らす。
「それを払って欲しいの?」
「それもある」
周囲からは夏の蝉と秋の虫の声が混じり合って聞こえた。
「残念だったね。僕、今はそんなに現金を持ち合わせていないんだ」
「謙虚になったからか?」
「そう。コンサートで儲けるのも馬鹿らしいし、弟子はレッスン料払ってくれるけど、今僕の欲しいものはお金で買えないものばかりだよ」
「愛って奴か?」
「それとベイビー。彩香さんが産んでくれたら、もらえるかもしれないけどね」
「おいおい、そいつはお門違いだろ?」

「彼女はまだ若いし、これから修行を積んでプロを目指さなきゃならない。井倉君もだ。だから、代わりに僕が育てるんだ」
「ベイビーがベイビーを育てるだって? こいつはお笑い草だ」
ケスナーは声を上げて笑った。
「そんなに欲しけりゃ、自分で作ればいいじゃないか。それとも作り方がわからないとか?」
「美樹の前でそんな事言ったら殺すぞ! 彼女は赤ちゃんを産めないんだ」
男は黙り込んだ。ハンスもしばらくは沈黙し、手にしたぬいぐるみをじっと見ていた。リボンの色が変わっていた。真新しいそれは恐らく最近になって取り替えたのだろう。明らかにそこだけ不統一な時が流れているような違和感があった。

「何で日本に来たのさ?」
ハンスが訊いた。
「たまたまさ。有住の会社と合弁企業として組んだのが元俺が所属してた警備会社だったんだ」
「警備会社はまだ生きてたって訳?」
「大分縮小し、大人しくなってるけどな。まあ、今更おまえらの手を煩わせるような事はないだろう」
「それにしても、よくお嬢様付きの運転手になんかなれたね」
ハンスは、郵便配達のバイクが通り過ぎるのを待って訊いた。
「離れたかったのさ。国じゃいろいろあったからな。日本語やっといてよかったよ。ほら、いつかおまえが置いていった本。日本語覚えるのに役立ったよ」

「驚いた。いつからそんなに勉強熱心になったの?」
「俺はもともと真面目なんだぜ。地道な努力を積み重ねて立身出世したって訳」
「それじゃあ、せっかく手に入れた安定職を逃さないためにも、余計な事には首を突っ込まない事だね」
そう言うとハンスはぬいぐるみを彼の膝に投げ返した。が、見ると、その首は胴から切り離されて男の足元に転がり落ちた。
「僕は今でも君の事、良い友人だと思ってるよ」
ハンスがそう言って微笑すると、男はすっと落ちたウサギの頭を拾って膝に置いた。
「そいつは有り難いね。だが……俺はおまえを馬鹿なウサギだと思ってる」
「じゃあ、その馬鹿なウサギがどうやってサバイブするのか見ててよ」
「いいさ。だが、お嬢さんの件は報告させてもらうからな。場合によっては俺の身体問題にも及ぶんでね」
「勝手にしろ」
そう言うとハンスは車を降りた。


彩香はリンダの計らいで秘密厳守のアメリカ人医師の診察を受けた。結果は陰性。医者は想像妊娠だと言った。
「想像も何も、わたしは初めから……」
彩香には何もかもが納得出来なかった。が、妊娠している事実はなく、完全に誤解であると医師は告げた。
「ごめんね、彩香さん。わたしが早とちりしたせいで……」
美樹が詫びた。
「いいんです。わたしがもっと毅然とした態度で否定していれば、こんな騒ぎにならなかったんです。美樹さんのせいじゃありません。わたしが……」
彩香は自分を責めていた。
(一瞬でも井倉の子どもが出来たんじゃないかと思ってしまったわたしにも責任があったのだわ。彼の子どもなら産みたいと思ってしまったわたしの小さな願望があったから……)
だが、彼女は、その思いとは違う事を口にした。
「これは井倉のせいよ。いつもはっきりしない態度でいるから……」
(わたしの……。いいえ、わたしだけじゃない。みんなの心を惑わせた井倉のせい……)


家に帰ると、早速皆に結果を報告した。
「え? 違ったってどういう事なんですか?」
それを訊いた井倉が驚いて説明を求めた。
「どういうもこういうも妊娠はなかったの。検査薬の間違いよ。あの薬は間違いが起こりやすいというので近いうちに回収されるらしいわ」
彩香が言った。
「じゃあ、気持ち悪いっていうのは……?」
「単なる風邪よ。ここのとこ温度差が激しかったせいらしいわ」
「そうだったですか」
ハンスが言った。
「そうか。私もほっとしたよ。はじめからおかしいと思ったんだ。あの真面目な井倉がそんな事出来る筈がないと……」
黒木も胸を撫で下ろすように言った。

「やれやれ。ハンス、君の勘違いか?」
「僕じゃないよ」
ハンスが否定する。
「ごめんなさい。わたしのせいなの」
美樹が謝る。
「いや、美樹さんのせいじゃない。そもそも、違うなら違うとおまえがはっきりと否定しないから、こんな騒ぎになったんだぞ」
黒木が言う。
「すみません」
井倉は頭を下げたが、腑に落ちなかった。
(僕、最初に違うって言ったのに……)

「そうよ! 井倉、あなたがいつもはっきりしない態度をとってばかりいるからこんな事になったのよ! 黒木先生のおっしゃる通りだわ。最初に違うって言ってくれてたらこんな面倒な事にならなかったのに……」
彩香が不満をぶつける。
「まあまあ。誤解が解けて良かったじゃないか」
フリードリッヒが間に入る。
「でも……」
彩香がさらに何か言おうとした時、ドアチャイムが鳴った。美樹が応対に出て行ったが、間もなく足音荒く有住が入って来た。

「お父様! どうして……」
彩香が驚いてその顔を見た。が、父はつかつかと歩んで井倉の襟首を掴んだ。
「貴様……! よくも……!」
そう言うと、いきなり拳で顔面を殴りつけた。井倉は反動で飛ばされ、電話台に背中を強打し、バランスを崩して尻から落ちた。
「いったいどういうつもりだ! 私の大切な娘を傷物にして……!」
「お父様やめて! 井倉には関係ないのよ!」
さらに殴りつけようと振り上げた腕を娘が止めた。
「彩香! おまえは……まだこんな男を庇うのか!」
父は娘の手を払い退けて睨む。

「まあ、落ち着いてくださいよ、有住さん」
黒木も慌てて止めに入った。
「落ち着けだと? これが落ち着いていられるか! 大事な一人娘が妊娠させられたというのに……。だいたい、ここにいる連中は何だ? よってたかって娘を食い物にしおって……! だから、私は初めから反対だったんだ。こんな得体の知れない連中が集まっている場所に娘を住まわせるなど……」
「それは酷いですよ、有住さん。僕達は紳士でした。それに、ここは美樹ちゃんの家なんだ。彼女はお嬢さんの事、大切に保護してたですよ」
ハンスが言った。
「何が紳士だ。そこの井倉といい、おまえ達といい、ろくでもない連中に囲まれているから……。彩香も堕落してしまったんだ。嫁入り前の娘がこんなはしたない……」
「酷いわ! お父様……」
反論しようとした彩香が声を詰まらせる。

「私は間違っていた。強引にでも彩香を連れ帰るべきだったんだ。なのに、昨日はわざわざこんな下郎に花束まで買って……」
井倉を見下げて有住が嘆く。
その時、リビングの電話が鳴った。誰も出ようとしなかった。が、電話はしつこく鳴り続けた。
「井倉君、ちょっと電話に出て」
ハンスが言った。彼が一番近かったからだ。
「でも……」
井倉は恐る恐る有住の顔を見たが、立ち上がって受話器に手を伸ばした。
「逃げようったって、そうはいかんぞ!」
有住がそちらへ向かおうとするのを黒木とハンスが止めた。
「落ち着いてください! 有住さん、これは誤解です」
黒木が言った。
「そうですよ。彼女は何でもなかった。ただの風邪だったんです」
ハンスも言った。

「ごまかす気か? 私は直接、医者から聞いたんだ。彩香が今日、産婦人科を受診したとな」
周囲を睨んで言う。
「そうよ! 病院に行って来たの。そして、検査を受けたわ」
「ああ。そうだ。その医者から訊いたのだ。おまえが妊娠していると……」
「あり得ません」
美樹が言った。
「わたしも一緒だったんです。それと友人も……。彩香さんは妊娠なんかしていない」
そう必死に訴えた。が、有住はまだ疑いを解こうとはしなかった。

電話をしてきたのは井倉の妹の澄子だった。
――お兄ちゃん? 今、駅から掛けてるの。お財布落としたらしくて、お願い迎えに来て!
「わかった。でも、ちょっと待っててくれ。今、こっちも立て込んでて……」
井倉はあとで必ず行くからと告げて電話を切った。
「井倉君、何か困った事でも?」
近くにいたフリードリヒが声を掛けた。
「妹が財布失くしたとかで……駅に迎えに来て欲しいと行ってるんですが……」
空模様が怪しくなっていた。時折遠雷も響いて来る。
「雨が降って来るかもしれない。私が迎えに行ってあげようか?」
フリードリッヒが言った。
「でも、先生にそんな事……」

ハンス達がいくら説得しようとしても有住は応じなかった。それどころか、ますます声を荒げ、雷のように叫んでいる。
「井倉君は当事者なのだから、ここを抜け出す事は出来ないだろう。この件では私にも責任があるからね。その償いだよ。妹さんを連れ帰る頃にはこの騒ぎも収まっているだろう」
フリードリッヒがあまり熱心に言うので、井倉は頼む事にした。もう夕方で、妹は傘も持っていないだろう。電話の声は何か切迫しているようにも思えた。お金がなくては傘を買う事も出来ないだろうし、心細い思いをしているかもしれないと思ったからだ。

「僕達の言う事がそんなに信用出来ないのなら、そのドクターに直接聞いてみればいいですよ」
ハンスが提案した。
「ああ。構いませんよ」
有住が言う。そのクリニックの連絡先は手帳に記されていた。その番号に、有住自身が電話を掛けた。相手の声もスピーカーから流れるようにした。それは、間違いなく今日、彩香が診察を受けたアメリカ人の医者だった。その人から話を訊くと、父親の表情は青ざめていった。
――ええ。ですから、お嬢さんは間違いなく妊娠ではありません。私はそう説明しようとしました。なのに、あなたが一方的に電話を切ってしまわれたのです。あなたはまず、娘さんがクリニックへ診察に訪れたかと問われました。私はイエスと答えました。だが、診察結果まで説明させてくれなかったのです。
医者は言った。

「それは確かな事なのでしょうな?」
――妊娠ですか? はい。100%ありません
そう言い切られては反論のしようがなかった。
「お父様、これでおわかりになったでしょう。井倉もわたしも潔白なのです。彼に謝ってください」
娘が言った。
「ああ……確かに。私の勘違いだったようだ。殴った事は謝罪しよう。しかし、何故産婦人科になんか行ったんだ?」
「それは……」
彩香が困ったように言葉を濁す。すると、背後にいた美樹が続けて言った。
「女性には女性特有の生理についての悩みだってあるんです。産婦人科は子どもを産むためだけにあるのではありません」
「あ、いや、それくらいの事は私も承知しているが……」
「それなら……」
「ああ、わかった。本当にすまない。私の勘違いだったようだ」
父は狼狽しながらも視線を泳がせ、井倉を見て言った。
「まあ、今回の事は多めに見よう。だが、前に言った条件は変わらない。1年いや、もう10ヶ月以内だ。それまでにデビューできなければどのみち娘には指1本触れさせない。わかったな?」
「はい。わかっています」
井倉が頷く。

「それと彩香、おまえもタレント気分で音楽などやってる若いのと目立つ場所で立ち話などするんじゃない。週刊誌の記者共が隙をねらっているからな。スキャンダルだけは起こすなよ。記事の内容は書き換えさせたが、あの生方という男も胡散臭い奴だ」
「ご心配なく。彼はもうヨーロッパツアーに出掛けました」
「ならば、いい。だが、くれぐれも遊び過ぎるんじゃないよ。おまえは有住家にとって貴重な存在なのだからね」
言いたい事だけ言うと、娘の返事も待たずに有住はさっさと出て行った。その後ろ姿を見送ると、彩香は美樹を見て微笑し、彼女も笑って頷いた。

「それにしても、なんて失礼な人なんだ」
ハンスが言った。
「まったくだ」
黒木も同意する。
「申し訳ありませんでした」
彩香が詫びる。
「あ、何も彩香さんが謝る事ないですよ」
ハンスが止める。
「そう。彩香君にはまるで非が無いのだからな。いや、むしろ、今回の事では一番の被害者なのだから……」
黒木も言った。

「本当にごめん。僕のせいで、君にまでいやな思いをさせて……」
井倉が言う。
「何であなたが謝るの? あなたは悪くないのだからしゃんとしてなさいよ」
「でも……」
そこへ猫達がやって来て皆の回りを巡り、井倉やハンスの足にこすり付けた。
「ああ、ごめんね。おまえ達も驚かせちゃって……。怖かったかもね」
井倉が猫達にも詫びるのを見て、やはり彼はやさし過ぎるのだと皆納得した。
「でも、本当によかったわ。濡れ衣が晴れて……」
美樹が言った。
「はい」
井倉もほっとした。

「何か安心したら、急にお腹が空いたみたい」
彩香が言った。
「食欲が出たのね。良かった。何がいいかしら?」
「カステラはまだあります? 出来れば紅茶と一緒にいただきたいのですが……」
「それなら、まだたくさんあるから、みんなでいただきましょうか」
美樹が言うと井倉も急いで支度を手伝いに行った。
そして、ようやく落ち着きを取り戻したリビングでお茶を飲んでいるとまた玄関チャイムがけたたましく鳴った。それはフリードリッヒだった。彼はリビングに駆け込むと蒼白な顔で言った。
「大変だ! 澄子がさらわれた」